戦国時代 真田幸村

大河ドラマ【真田丸】徳川家康を震撼させた真田幸村のここがすごい! #真田丸 #大河ドラマ

2014/05/29

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2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公・真田幸村は堺雅人さんが演じています。脚本は三谷幸喜さん、幸村の兄の信之役に大泉洋さんと、鉄板キャストです。父・真田昌幸役の草刈正雄さんも最高。

なんとなくよくわからない、という方向けに真田幸村の人気について「こういうところが人気あるんだよ」というところをつらつらっと書いておこうと思います。
歴史の真実などわかりようがないというのが持論でもあるので、あくまで「通説」としてこんな話があるよという理解でご覧ください。

生前、「真田幸村」とは言われていなかった

歴史的に言われている名前は「信繁(のぶしげ)」なんですよね。幸村と言われるようになったのは、後の講談などの中での話だそうです。
赤穂浪士で有名な大石内蔵助は、吉良邸討ち入りの後しばらくのうちは、幕府からは許されざる存在でした。それはそうです。幕府の裁きが不満で討ち入りをしたわけですから。軽いテロです。
でも世間では大人気で講談にもなる、という流れでは本名を使うわけにいかず、大星由良助という名前で登場します。

それに近いところがあったのではないでしょうか。

と、「現役時代」には無かった名前で親しまれているあたり、幸村が人気があったという証拠でしょう。

関ヶ原の戦いの前哨戦で父・昌幸と共に徳川秀忠軍を翻弄

1600年、東軍(徳川家康軍)と西軍(石田三成をはじめとする軍)がぶつかった関ヶ原の戦い。

東海道を家康軍が進み、兄がなくなるなどして実質的に徳川家の長兄となっていた次男・秀忠が中山道を進みました。
中山道の西軍にかかわる武将を抑え込みながら関ヶ原もしくは京都に向かう目的だったと推定されます。

で、信州上田城の真田家を軽く踏みつぶそうとしたときに、真田家の巧妙で頑強な抵抗にあい、無駄に時を過ごさねばならなくなりました。

その時の主役は父・昌幸だったのですが、片腕として大いに働いたのが幸村でした。

この時徳川秀忠軍は約38000、上田城にこもる真田軍は約3500だったと言われています。
挑発し、誘いこんでは鉄砲の射撃、夜討ち・朝駆けを巧みに使い、10倍以上の兵を持つ秀忠軍を大いに翻弄します。真田昌幸は、秀忠軍がここで「ガチ」に潰しに来るのではないことを戦略上理解していました。ですから、適当に数日弄べば役割を果たせるという意図で、うまい籠城をして見せたのですね。

この結果、関ヶ原の戦で敗れた敗軍の将として死罪も検討されましたが、徳川家で働いていた昌幸の子・信之などのとりなしによって、配流(島流し的な。島ではなく本土内ですが)で済みました。

大阪冬の陣の「真田丸」

1614年~15年、徳川が豊臣を滅ぼす戦が行われました。それが大阪冬の陣、大阪夏の陣です。
まず冬の陣。

兵力では劣るものの天下の名城・大阪城に籠る豊臣軍ですが、一か所弱点がありました。
玉造口という場所だったのですが、そこに幸村は真田丸と呼ばれる出城を築きました。
弱点だと思っている徳川軍は当然攻めに行きますが、十分な備えをしていた幸村は痛烈な打撃を与え、ここを攻めた徳川の兵を壊滅状態に追い込み、撤退させています。

大阪冬の陣は講和という形で幕を閉じるのですが、講和の条件の一つに真田丸の撤去があったそうです。
冬の陣は徳川が豊臣をさんざん脅す形で講和をしたため、大阪城の防御力を著しく落とすことに成功したんですね。

でも、冬の陣の後、豊臣家は徳川家に恭順しない態度を取ったため、徳川から決定的に滅ぼされる戦争を再び起こされます。それが大阪夏の陣です。

大阪夏の陣の猛攻

大阪冬の陣で真田幸村は豊臣軍の「エース」になりました。弱小チームのエースですから大切なところで投げるというよりは大車輪の活動をしなければならず・・・。

前哨戦ともいえる伊達政宗軍との戦いでは(幸村の前に後藤基次=今の「軍師官兵衛」に出てくる又兵衛=を討ち取っておりノリノリの)伊達軍を打ち破りました。

やや混乱気味の豊臣軍をうまくまとめて大阪城に撤収せしめます。

そして最後の総攻撃(豊臣軍としては負けを覚悟していたのでしょう)として茶臼山(大阪の天王寺公園のあたり)に陣を構え、戦としては終わってるけれど、武士の本懐として徳川家康の首一つを目指して突撃を試みます。

徳川軍の幾重の部隊を突き破り、ついに真田の軍勢は本陣まで到達。徳川家康は若かりし日に、かの武田信玄にけちょんけちょんにやられた「三方ヶ原の戦」以来、本陣への被弾を喰らいました。

「真田十勇士」という物語が大正期にできる

名前はご存じかもしれません、猿飛佐助や霧隠才蔵、根津甚八(俳優じゃないよ)などの真田幸村を手伝う10人の忍者などの面々。この物語は戦国時代でも江戸時代でもなく、大正時代に出来上がったそうですね。このころにはすでに、真田幸村の人気は結構なものだったのではないでしょうか。

戦国もののゲームなどではおなじみのキャラクターも幸村人気あってこそです。

幸村をもっと知るために

いろいろなご本などご紹介。

あっ、なんか間違えた。

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