2014年11月。NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ関ヶ原の戦いに突入しようとしています。
さて、末期の豊臣政権ですが、どのような形で運営されていたかを簡単にご説明します。
秀吉の死の直前から死亡直後までは、五大老・五奉行という形で政務が執り行われていました。 ドラマの中でも五大老・五奉行というセリフが出て来ますが細かく説明されてはいませんので簡単に説明しておきたいと思います。
真田丸では大老のことは老衆(おとなしゅう)と呼んでますね。
~ 目次 ~
五大老
五大老は、豊臣家の政治をつかさどっていました。
大老は6人いたのですが、ナンバリングされる前に小早川隆景が死亡したため、世の中としては5大老として扱われています。
主に秀吉旗下についた大大名によって構成されておりました。前田利家は織田信長時代からともに織田家で戦ってきておりますが、そのほかは戦をしつつ和睦しつつという中で豊臣政権下に組み込まれていった実力者です。
豊臣家は嫡男の秀頼がまだ幼少で天下を治める器量があるかないかもわからない状態です。五大老という制度を作ることによって、天下を狙えそうな有力大名を互いにけん制させることで、豊臣家の転覆を防ごうとしたものだとも言われています。
五大老+小早川家は以下の表のとおりです。
未登場部分の所、ご存じの方教えてください。できれば「第○話に登場」などとご教示頂ければ確認できます。
氏名 |
真田丸の配役 (2016年7月30日時点) |
軍師官兵衛での配役 (2014年11月16日時点) |
死亡後の後継者 | 関ヶ原の戦い | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
徳川 家康 |
内野 聖陽 | 寺尾 聡 | 生存 | 東軍 | 秀吉の死後、大老制度を壊しにかかる。関ヶ原の戦いの東軍総大将 |
前田 利家 |
小林 勝也 | 横内 正 | 前田 利長 | 東軍 |
家康とは反目していたが秀吉の死後、ほどなくして死去。 嫡男の利長は家康側に付いた |
宇喜多 秀家 |
高橋 和也 | 武田 航平 | 生存 | 西軍 | 関ヶ原の戦いのあと、八丈島に流刑される。 |
上杉 景勝 |
遠藤 憲一 | 未登場? | 生存 | 西軍 | 大河ドラマ「天地人」直江兼続の主人。前田慶次最後の主人 |
毛利 輝元 |
浅地 直樹 | 三浦 孝太 | 生存 | 西軍 | 関ヶ原の戦いの西軍総大将。江戸時代の「長州」。幕末の長州藩=この毛利藩 |
小早川 隆景 |
未登場? | 鶴見 辰吾 | 小早川秀秋 |
西軍→東軍 (小早川秀秋の裏切) |
隆景の養子・秀秋が関ヶ原の戦いでは当初、西軍にいたが、戦の途中で東軍に寝返り |
五奉行
なんだか正式には五奉行って言葉はなかったらしいです。が、以下の5人が代表的であったのはまあ間違いないわけで、そのまま使います。
五奉行は豊臣政権の実務を担っていました。
5奉行は主に秀吉の直接の家臣でした。家臣になったタイミングはそれぞれですが、召し抱えられた、という関係になっていました。
五奉行は以下の表のとおりです
未登場部分の所、ご存じの方教えてください。できれば「第○話に登場」などとご教示頂ければ確認できます。
氏名 |
真田丸の配役 (2016年7月30日時点) |
軍師官兵衛での配役 (2014年11月16日時点) |
関ヶ原の戦い | 備考 |
---|---|---|---|---|
石田三成 | 山本 耕史 | 田中 圭 | 西軍 | 関ヶ原の戦いで、事実上の西軍総大将 |
増田長盛 | クレジット無し? | 有薗 芳記 | 西軍 | 関ヶ原の戦いでは西軍に属するも東軍への協力行為もあり改易止まり。その後大阪の陣で豊臣方へ。 |
長束正家 | 木津 誠之 | 佐久間 哲 | 西軍 | 関ヶ原の戦いで敗戦後切腹 |
浅野長政 | クレジット無し? | 長盛 雅人 | 東軍 | 孫の孫が浅野内匠頭(忠臣蔵の序盤で切腹した赤穂藩主) |
前田玄以 | クレジット無し? | 未登場? | どっちつかず | 京都所司代 |
幸村・官兵衛はいない
真田幸村はそういう立場にありませんでしたね。
黒田官兵衛がなぜここに入らなかったのか、までは良く知りません。
朝鮮の役で叱責を受け隠居したことなどもあり、豊臣政権としては一線を引いていたのかもしれませんね。ただ、力量や知恵では一目置かれていたはずではあり、他の武将の気になる存在であったころは間違いないのではないかと想像しています。
関ヶ原の主役たち
ざっくり言うとこの10人の中で徳川家康が天下を取りに行き、五大老・五奉行の制度をかき乱しに入ります。家康以外の四大老には、秀吉の若年からの朋輩であった前田利家(軍師官兵衛では全然出て来ませんでしたね)が目を光らせていたたため軽々しく動けませんでしたが、前田利家の死後、家康に武力や格で物を言える大名はいなくなってしまいました。
無理もありません。小牧・長久手の戦いにおいて、「秀吉に最後に土を付けた男」になっていますからね。
さて、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍と毛利輝元(石田三成)率いる西軍の戦いですが、名目上は、
「豊臣家内の正当派による、豊臣政権をきちんと運営できない反乱分子を取り除く」
という双方の主張に基づいた戦いでした。徳川家康も名目上は、石田三成らは豊臣家に禍(わざわい)を為すものだから退治する、三成は三成で豊臣政権を脅かす家康を退治する。そういう理由で双方動いていたのです。
家康が江戸幕府を立ち上げてしまったのは、そのもっと後の話。大坂の陣までのドラマはいろいろあります。
関ヶ原については以下に書いておりますので、よろしければそちらもご覧ください。
関ヶ原の戦いは徳川軍vs豊臣軍ではない #真田丸 #軍師官兵衛 | 明日やります
歴史にIFはありませんが、もし三成側が勝利したら、その後豊臣政権はどのようになっていったのでしょうか。興味深いテーマではあります。