戦国時代のクライマックスは誰もがそう思うであろう「関ヶ原の戦い」。
大河ドラマは見ているけれど歴史はあんまりご存じない、という方に向けた、通説を基にした関ヶ原の戦い入門です。この点だけ理解しておいていただければ、あまり混乱せずに物語を見ることができるでしょう。
~ 目次 ~
戦ったのは「豊臣軍」vs「豊臣軍」
徳川家康が石田三成に勝った関ヶ原の戦いですが、戦ったのは「徳川軍」(東軍)と「豊臣軍」(西軍)ではありません。
簡単に言えば、秀吉亡きあと、豊臣家の政治システムであった「五大老・五奉行」の仲間割れの戦争です。
五大老・五奉行については僕のブログ内の
豊臣政権末期の制度「五大老・五奉行」について簡単に説明します | 明日やります
こちらもご覧ください。
もちろん家康にも三成にもそれなりの野心や希望があったでしょうけれど、この時の立場としては双方とも
「豊臣家の家臣としてふさわしくない人(石田三成あるいは徳川家康)をやっつける」
という立場での戦いでした。建前上は豊臣家内の内部抗争だったのですね。
このように理解すると以下の疑問が解決します。
なぜ、豊臣秀吉恩顧の武将である黒田長政・加藤清正・福島正則が徳川に付いたのか。
なぜ、豊臣秀頼は参戦しなかったのか。
という疑問です。
そうです。東軍に付いた豊臣恩顧の武将も、徳川に付いたは付いたけれど、それは「豊臣家の中の徳川派」だったからです。
徳川に付いたけれど、豊臣は裏切っていないんですね。
豊臣秀頼も家臣同士のいざこざなので、建前上、どちらにつくもなかったのでしょう。もっとも秀頼は西軍総大将の毛利輝元の庇護下に置かれましたが、それによる影響は実質なかったのでしょう。
東軍についた武将のうち、大阪の陣までは豊臣家を支えた人もいるわけですが、これも関ヶ原の戦いで戦った諸将がどのような立ち位置だったのかを理解すればさほど難しいことではありません。
また、関ヶ原の戦いで寝返った武将がいたとしても、それは建前上、豊臣家の派閥の中で寝返ったにすぎません。
徳川家康が江戸幕府を起こし、豊臣家を滅ぼしたのは、後の話なんです。
明治初期のドイツ軍人は、東西軍の配置をみて「西軍勝ち」
明治時代に日本の陸軍を指導したドイツの軍人・クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル氏は関ヶ原の戦いの東軍・西軍の配置図を見て、西軍の勝ちを語ったそうです。
もっとも、そこには小早川秀秋や吉川広家らの裏切った武将に関する情報は含まれておりませんでした。西軍から東軍へ裏切った武将を西軍のままにして布陣を見ると、徳川家康は必敗の様子だったらしいですね。
もっともそのドイツ軍人さん、あとから裏切りの事実を聞かされたそうですけれどね。
上田城で徳川秀忠を「歴史に残る大遅刻」に導いた真田昌幸・幸村親子
関ヶ原の戦いの時、徳川家康は東海道を進みました。
後に二代将軍となる徳川家を継ぐ男・徳川秀忠は中山道を進みます。その数38,000と言われています。
その38,000の兵を進路途中、わずか2,000の兵が立てこもる上田城でまさかの足止めを喰らいます。
景気づけにひと揉みにしてやろうと秀忠は思ったのでしょうね。わーっとせめてかかりますが、真田親子は絶妙な作戦で籠城戦を進めて行きます。数日経って秀忠
「やばい!天下分け目の大戦に遅れちゃう!」(多分この時点で、戦場が関ヶ原になることは決まっていない)
と気づき、追っ手がこないよう押さえの兵だけ残して再び進軍を開始するのですが、秀忠が到着したときにはたった半日で終わってしまった関ヶ原の戦いは終わってしまっていたのですね。
現代のスポーツのように負けたチームからも優秀選手を表彰できるのであれば、38,000の兵を戦に参加させなかった真田親子は確実に受賞していることでしょう。
シード権を得ようとした黒田官兵衛
黒田官兵衛が関ヶ原の戦いのときにどうしていたかというと、ドラマでも描かれているように、九州を統一してから中国地方を制圧し、京・大阪に乗り込もうとしていた節があります。
徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦いがトーナメントの決勝戦だと思いきや、官兵衛はいきなりブロックをもう一つ作りました。そして、天下取りトーナメントで官兵衛はシード権を得たつもりだったのです。
直接対決で疲弊した徳川軍・あるいは石田軍と決勝戦を戦おうとしたのでしょう。徳川・石田にしてみれば、死力を尽くして決勝戦を戦ったつもりが、官兵衛軍とワンモア!ということになり、気力も衰えてしまうに違いありません。そうなれば官兵衛軍は有利に戦えるはずです。
日本中の兵士の多くが関東から関西のあたりに集まってしまったこともあり、九州・中国地方は全体的に手薄になってしまいました。官兵衛は金で雇い入れた農民・町人らを十分に鍛えて数の少ない兵力を補い、九州を席巻します。そして降伏した敵国を許すことで兵力を増やしていき、中央に盛り上がっていくつもりだったのです。
関ヶ原の戦いは短時間で東軍が勝利してしまったため、官兵衛の軍が天下に影響力を与えるほど大きくなる前に天下の形勢が決まってしまいました。シード権を得たつもりが天下取りトーナメントのブロックから外されてしまい、家康vs三成の戦いが決勝戦になってしまったんですね。
情勢を悟った官兵衛は、あっさり自分の得た領土を諦めて再び隠居生活に戻ります。このあたりの身を引く速さが生命への嗅覚ですよね。
黒田官兵衛は江戸幕府の成立した翌年・1604年まで生きました。天下の趨勢と徳川の世を確認して死ぬことができたため、戦国時代を見事に生き抜いた名武将だなあと思います。